趣味日記。

まりりんまんそん。

ドラえもん 〜僕たちの未来〜

【プロローグ】
〜一九六四年八月七日・ススキヶ原〜
 胸を高鳴らせながら、スーツがぐしゃぐしゃになるのも構わず道を駆ける男が一人。彼の名は野比のび助。その日は、彼にとって生涯忘れられない特別な日になった。
(もうすぐ生まれる……僕たちの、息子が!!)
 病院からの一報を受けて急いで会社を飛び出したのび助は、はやる気持ちを抑えながらタクシーへと乗り込んだのだった。
〜同日・ススキヶ原病院内〜
 閉ざされた分娩室の扉の前で、のび助は側のソファにも座らずぐるぐるとその場を歩き回っていた。じっとしていればすぐにでも興奮と不安で心がどうにかなってしまいそうだったからである。それからどれほど経っただろうか。分娩室の奥から赤子の声が聞こえ、少ししてその扉が開いた。
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ。」
 のび助の、心が躍った。



「ありがとう玉子……よく頑張ってくれたね。」
「頑張ったのは私じゃなくて赤ちゃんのほうよ。……本当に、よく産まれてきてくれたわ。」
「……そうだね。」
 病室のベッドで横になる彼の妻の野比玉子と、彼女の手を取り安堵するのび助。そしてその傍らには、穏やかな寝息を立てる一人の赤子がいた。
「ねぇ……あなた。この子の名前、もう決めてあるのよね?」
「……あぁ。」
 のび助は、産まれたばかりの愛する息子を優しく抱きかかえた。

のび太。僕たちの子の名は、野比のび太だ!!」

【一】
〜十年後・ススキヶ原〜
 午前八時、寝坊。母に怒られる。午前八時十五分、食べたパンが熱くて口の中を火傷。午前八時三十分、慌てて登校したせいで足を教室入口の段差にひっかけ、盛大に床へとダイブ。結局ホームルームにも間に合わず、先生のお叱りを受けて、痛む身体を抱えながら廊下に立たされる。午後十二時、給食を落としてしまい溢れたスープで服を汚す。午後一時、体育のドッジボールの授業でボールを思い切り顔面にくらい、鼻血を出す。そして現在、帰宅途中——。
「トホホ……やっぱ僕って、ついてないや……。」
 のび太は止血用のガーゼを鼻に詰め直しながら、己の不幸を呪った。
 野比のび太、十歳。定期テストは常に〇点。かけっこは万年ビリ。勉強ダメ、運動ダメ。周りからは馬鹿だノロマだと馬鹿にされ、親や先生からはしょっちょう叱られる。さらに遅刻魔で昼寝が大好きという、まさにダメダメを地でいく少年。そんな彼には更に一つ、厄介な悩みの種があった。
「ようのび太。今日のテスト散々でむしゃくしゃしてるからよぉ……一発殴らせろ。」
「そうだぞ! 大人しく殴られろ!!」
「げっ」
 ジャイアン。本名は剛田武。クラスのガキ大将で、気に食わないことがあるとすぐのび太を殴る嫌なやつ。彼の隣にいるのは骨川スネ夫ジャイアンの腰巾着で、いつも家の金持ち自慢をしたり集団での遊びからのび太をハブるこちらも嫌なやつ。
「あはは……僕を殴らなくたって、きっとすぐにむしゃくしゃはおさまると思うよ……なんて。」
「うるせぇ!!」
 ジャイアンの、痛烈な右ストレートがその顔面にめり込んだ。たまらず吹っ飛ばされるのび太。満足げに去っていく彼らを見ながら、のび太は大粒の涙を流したのだった。
【二】
 翌日。休日だったおかげで珍しく何もなく、のび太は自室でごろ寝しながらどら焼きを頬張っていた。
「のどかな休日……きっと今日はいい日になるなぁ。」
「いや、碌なことにならないね。」
 自分しかいないはずの部屋で響く謎の声に、のび太は慌てて飛び起きた。
「えっ!? ちょっと待ってよ!! 君……誰? しかも碌なことにならないって……不吉なこと言うなよ!!」
「十分後、針地獄。三十分後には火炙り。ははぁ……話には聞いてたけど、本当についてないというか……困ったなこれは。」
 その言葉を最後に、謎の声は聞こえなくなった。その声の不吉な置き土産に身震いする。果たして、声の通り『針地獄』と『火炙り』に遭うのか。とても不安だったが——
「まぁ、そんなことあるわけないか。」
 すぐに気持ちを切り替え、またごろ寝を始めた。のび太はおおらかな少年であった。
「ねぇー! のび太さん!! ちょっといいかしら?」
 窓の外から聞こえる女の子の声。のび太はこの声にとても聞き覚えがあった。
「しずかちゃんだ! はーい! ちょっと待ってね!!」
 窓を開け、見下ろした先にいた少女たちのうちの一人。彼女は源しずか。クラスの人気者で、のび太が想いを寄せるひとだ。
「しずかちゃん! どうしたの?」
「屋根の上に羽が乗っちゃったの! のび太さん、とってくれない?」
 よく見てみると、目の前の屋根上に彼女達がやっていたであろうバドミントンの羽が乗っていた。
「分かった! ちょっと待ってて!!」
 窓から身を乗り出し、屋根伝いに羽をとりに向かう。ようやく目的の場所まで辿り着き、あとは足元の羽をとるだけとなったとき——それは起きた。
のび太さん! 気をつけてね!!」
「だいじょうぶだいじょうぶ任せてよっと……とっとっと!?」
 屋根の傾斜に足を滑らせ、お尻から勢いよく地面へと落下していく。そんなのび太のケツを待ち構えるかのようにソレは……サボテンはあった。
 ブスブスブスッ!!!
「痛ぇーーーーーー!!!!」
 無数のサボテンのトゲが、容赦なくのび太のケツに突き刺さった。それはまさしく
「針地獄……だ。」
のび太さん! 大丈夫!?」
 慌てた様子のしずかが駆け寄ってきた。彼女の隔てない優しさに、のび太はいつも癒されていた。
「しずかちゃん……はいこれ、羽だよ。」
「え?」
 手に取った羽を渡し、痛む尻をさすりながら立ち上がる。
のび太さん……?」
「ごめん、もう……部屋に戻るよ。それじゃあね。」
「……ありがとう、のび太さん。」
 スタスタとその場を去るしずか。そんな彼女の背中を見ながら、のび太は先ほどの予言を思い出していた。
(針地獄は当たった……次は火炙り。一体僕はどうなるんだ?)



 ケツにサボテンの針が突き刺さってから二十分後、のび太は身体を震わせながら自室でストーブに当たっていた。あのすぐ後、のび太は地面についた手を洗うため家の洗面所に向かった。そしてそこで落ちていた石鹸に足を滑らせ……そのまま勢い余って冷水が溜まった湯船に突っ込んだのだった。
そうして冷えた身体を、今このようにして暖めているというわけである。
「これも一種の……火炙りだ……」
 そんなのび太の呟きを待ってましたとばかりに、例の謎の声が再び響き渡った。
「どう、言った通りになったでしょ?」
「君は……誰だ! 誰が話してるの!?」
 不意に、勉強机の引き出しが勢いよく開いた。そしてそこから
「僕だけど気に障った?」
 丸い顔をして首に鈴をつけた青ダヌキのような生物が、顔を覗かせていた。
【三】
「あ、青ダヌキのば……バケモノ……!!」
「失礼な! 僕はタヌキじゃない! 立派な猫型ロボットだぞ!!」
 その青ダヌキ……ではなく猫型のロボットは、鼻息を荒げながら引き出しから出て、首につけた鈴を鳴らしながらのび太の目の前に立った。その鈴の音は、やけに心地良い響きだった。
「ロボット……って? 君は、一体なんなの?」
「よくぞ聞いてくれました! 僕はね、未来から君を助けるためにやってきたお助けロボット!! ドラえもんって言うんだ!! よろしくね!!」
 そう得意げに言いながら、ドラえもんは右手をのび太に差し出した。恐らく握手の挨拶なのだろうが……そのゴム毬のように白く丸い手を、のび太は握ることができなかった。
「えっと……未来から来たって? いくら僕がSFとかアニメ好きでも、そんな話信じられないよ。」
「そう言われてもなぁ……んっ!?」
 訝しむのび太を他所に、ドラえもんはそばに置いてあったどら焼きを物欲しげに見つめた。どうやらよほど美味そうだったらしい。
「ね、ねぇ! これ食べてもいい?」
「あぁ……いいよ、別に。」
「やった!!」
 その言葉を聞くや否や、ドラえもんはそのどら焼きをひとつ残らず平らげてしまった。落ち着いたら食べようと思っていたのび太は、『ひとつだけ』と釘を刺しておかなかったことをひどく後悔した。
「ね、ねぇ。ちゃんと説明してよ。未来から来たって、どういうこと? 冗談だよね?」
「あ、ごめんごめん。えーっと……なんて説明しようかなぁ」
 そう言って腕を組むドラえもんのび太がそんな彼をじっと見つめていると、不意に再び机の引き出しが開いた。そして今度は、なんとのび太と同い年くらいの少年が顔を出したのだ。これからしばらくどんなことが起きても驚かないだろうと、のび太はその時思った。
「あ……」
 ドラえもんが不意に声を上げた。どうやら、彼の知り合いらしい。その子は『よっこらせ』と言いながら引き出しから出ると、にっこりと笑顔を浮かべながらのび太に向き直った。
「僕はセワシ! おじいちゃんの未来を変えるために、このドラえもんを寄越したのは僕さ!!」
 えっへんと胸を張るセワシ。しかし、のび太には到底理解できるような内容の説明ではなかった。
「ちょ、ちょっと待ってよ。おじいちゃんって? 僕まだ五年生だよ。そんな歳いってないよ。」
「あ、えーっとね。僕は未来からきた、君の玄孫……まぁつまり、孫の孫だね。」
「嘘だぁ。僕はまだ結婚もしてないんだよ? そんな僕に孫の孫までいるわけが無いじゃない。」
 のび太のその言葉に、セワシははぁと大きくため息をついてから話を続けた。
「……いいかい。君だって、いつかは大人になるだろう? それで将来、誰かと結婚する。で、子供を授かる。その子供が未来でまた子供を授かって、それが繰り返されて結果産まれてきたのが僕なんだ。だから僕にとって、君は紛れもなくおじいちゃんなんだよ。」
「そっか……君は未来から来た僕の子孫なんだね。」
「さっきからそう言ってるんだけど……頭悪いなぁ。」
 呆れたようにポリポリと頭を掻くセワシのび太はそんな彼の様子を見て、少し腹を立てた。
「悪かったな、頭悪くて。それで? 君がドラえもんを連れてきた理由は何なのさ? 未来を変えるって?」
「あ、えーっと……それはつまり……まぁ、ぶっちゃけて言うとこれからの君の未来は碌なものにならない。だから、このドラえもんに君のことを世話してもらって、そんな碌でもない未来を変えちゃおうってわけ。」
 碌なものにならないという言葉に少し引っかかったが、それでものび太は舞い上がった。未来からの助っ人がくれる最高の人生を想像して、胸躍らせたのだ。
「じゃあつまり……もしかして億万長者にしてくれるとか!? アイドルと結婚したり、豪邸に住んだり、そういう最高の未来にしてくれるってこと!?」
「いや、それは違う。」
 セワシは冷たくあしらった。のび太は容赦ないその言葉に落胆したが、それ以上に先ほどからセワシが少しだけ見せる仄暗い表情が気になってしょうがなかった。
「えーっと……ドラえもん、おじいちゃんに説明してあげて。」
「……うん。」
 ドラえもんが丁寧に語り出した。
「いいかい? 僕たちができるのは、君に訪れる悪い未来をほんの少し修正してあげることだけ。例えば宿題を忘れたり、テストで〇点をとったり……そういうマイナス要素を少しでも無くせるように、君をサポートする。その先の大きな未来は、君自身の手で切り拓かなきゃいけないんだ!!」
 ドラえもんのビシッと伸ばした短い手が、のび太をさした。
「え〜、めんどくさいよ。自分で未来を切り拓くとか……そんな大それたことできるとは思えないしなぁ。」
「意気地が無いなぁ……じゃあセワシくん、あとは僕に任せてよ。」
「うん。よろしくね、ドラえもん。おじいちゃんもそれじゃあ!!」
 そう言うと、セワシはさっさと引き出しに入ってその姿を消した。どうやら未来に帰った、とのことらしい。
「それじゃあのび太くん、これからよろしく!!」
「……よろしく。」
 猫型(?)ロボットとの、奇妙な共同生活が始まった。
【四】
〜一ヶ月後・放課後«ススキヶ原・野比家»〜
のび太! また〇点取って……いつも言ってるでしょ!! ちゃんと勉強しなさいって!!」
 ママの説教が始まって、もうすぐ一時間が経とうとしていた。最初は今朝の寝坊についての説教だったのだが、もうすぐ終わりかというときになってなんと成績についての説教が始まったのだ。
「あのぉ……どうしてお母さまが僕のテストの点数を知ってるんでしょうか? ちゃんと隠しておいたはずなのに……」
「かっ……! 隠っしっ……!?」
 一瞬の動揺の後、ママの表情が鬼から修羅に変わる。『あぁ、余計なことを言った』と、のび太は酷く後悔した。
のび太ァ〜〜〜!!!」
 まるで天を裂くようなママの怒りが、野比家に轟いた。



「どうしたののび太くん、打ち上げられた魚みたいになって。」
 自室で覇気無くうつ伏せになるのび太に、ドラえもんが声をかけた。
「あぁ……ドラえもんか。僕はもうダメだ。一巻の終わりだ。」
「大袈裟だなぁ。ただママに怒られただけでしょ。理由も聞いたけど、完全にのび太くんの自業自得じゃない。」
 ロボットのくせに尻をかきながら胡座をかき、持ってきたどら焼きを頬張るドラえもん。そんな彼の姿を見ながら、のび太は悪態をついた。
「薄情なやつだなぁ。ていうか君が来てもう一ヶ月経つけど、一向に未来が良くなる感じにならないじゃない。本当にアテになるの?」
「失礼なやつだなぁ。僕は未来から来た超高性能のお世話ロボットだぞ。もうちょっと信じてもらいたいね。」
「ほんとかね……全く。そもそもセワシくんが僕の子孫ってのも信じられないよ。大体なんで僕の世話なんて焼くのさ。今が楽しければそれでいいんじゃないの?」
「……」
ドラえもん?」
 ドラえもんは、何も言わなかった。この一ヶ月彼のいろんな表情を見てきたのび太だったが、そのときの表情は初めて見るものだった。
「……なんか変なこと言った?」
「え!? ……ううん、なんにも。」
「でもさ……」
「の〜び〜太ァ〜!! 出てきやがれ!!」
「げ、この声は。」
 のび太が恐る恐る窓を開けて外を覗いてみると、玄関先に彼の天敵とも言える二人がいた。ジャイアンスネ夫だ。
「何で野球来なかったんだよ! てめぇが来なかったせいで、人数足りなくて不戦敗になっちまったじゃねぇか!!」
「ねぇか!!」
「げ、忘れてた。」
 のび太はよく二人に誘われて、ジャイアンが率いるチーム『ジャイアンズ』の一員として野球に興じていた。ちなみに、今まで一度もボールを打ったことはないし、捕ったこともない。
「早く表に来やがれ!!」
「きやがれ!!」
 はぁと深いため息をつき、窓から離れるのび太
「あぁ、ジャイアンスネ夫?」
 最後の一個のどら焼きを頬張りながら、ドラえもんが聞いてきた。
「うん……全く、どうせ僕が出たってエラーとか三振とかで足引っ張るだけなのに。なんで僕なんか誘うんだろ?」
「まぁそんなこと言わずにさ。誘ってくれるのは嬉しいことじゃない。」
「ただ笑いものにしたいだけさ。……ねぇドラえもん、なんか未来の道具でケンカが強くなる道具、ない?」
「あるにはあるけど……どうして?」
「あの様子じゃ、どうせ空き地で殴られるのがオチさ。そうならないように、力貸してよ。」
「全くしょうがないなぁ。じゃあ……」
 ドラえもんが、お腹についたポケットをゴソゴソとまさぐる。彼のお腹についたポケットは四次元ポケットと言って、その名の通り四次元に繋がった未来の道具だ。仕組みは全く分からないが、のび太はこの一ヶ月彼がポケットから取り出す便利な道具に頼りきりな日々を送っていた。
「ん、あった。」
 ポケットから、未来の道具が取り出される。
「ハイパワーグローブ〜!!」
 ドラえもんには、道具を取り出すときに得意げに道具名を叫ぶ癖があった。
「……ただのグローブに見えるけど。一体どんな道具なの?」
「えーっとね……このグローブを手につけると、
通常の数百倍の威力で殴る事ができるんだよ。」
「数百倍!? すごいじゃない!! これさえあればジャイアンなんて怖くないや!!」
「やい! 早く来い!!」
 ジャイアンの大きな声が響いた。いつもならとても恐ろしく感じる声だったが、今日はとてもちっぽけに感じた。
「今行くよ!!」
 グローブを両手にはめ、意気揚々と階段を駆け降りていく。のび太は、自信に溢れていた。



〜ススキヶ原・空き地〜
「よぉのび太……ビビらずによく来たな。」
 拳をポキポキと鳴らしながら、ジャイアンが自信に溢れた笑顔を浮かべながら言った。だが、のび太も負けてはいない。
「そっちこそ後悔するなよ……今日の僕は、一味違うぞ。」
「へぇ……何が違うのか、見せてもらおうじゃねぇか!!」
 ジャイアンの剛腕から放たれた拳が、のび太の顔面めがけてとんだ。当然ながら当たればひとたまりもないので、当たらないように背中を向けて逃げるのび太
「やい! なにが一味違うだよ!! 結局逃げてんじゃねぇか!!」
 渾身の一発が空振りに終わって苛ついたジャイアンが叫んだ。その後方では、スネ夫がにやにやとこちらを見ている。
「くそ……見てろ。一発だ。一発で倒してやる!!」
「おもしれぇ!! やってみせろ!!」
 のび太の挑発に乗り、ジャイアンが両手を広げて無防備にその場に立った。彼の強者ゆえの慢心を、のび太は知っていた。普段殴られ続けてきた者だからこそ分かった、ほんの少しの隙。それを、のび太は逃さなかった。
「食らえぇぇぇぇ!!!」
 のび太の一発の拳が、ジャイアンを大きく吹き飛ばした。
【五】
〜数日後«ススキヶ原小学校・教室»ー
 道具の力を使ってジャイアンを殴り飛ばしてから、のび太の日々は変わった。
「おぅのび太。てめぇなんで野球来ねぇんだよ。」
「あんな疲れる遊びやりたくないのさ。ていうかいいの? 僕にそんな態度とって。ドラえもんの道具を使えば、君なんて一捻りだよ? この前みたいにね。」
「うぐっ……行こうぜ、スネ夫。」
「……うん。」
 不満げな表情を浮かべながら、ジャイアンスネ夫は教室を出て行った。のび太には、未来から来た凄いロボットがついている。そんな話が、クラス中に広がっていた。もう、誰も自分を馬鹿にしない。恐れ、敬う。そんな現状を、のび太はとても気持ちよく思っていた。
「ねぇ、のび太さん。」
「やぁ、しずかちゃん!!」
 のび太に声をかけたのは、しずかであった。以前はよく一緒に帰っていたが、最近はそれもめっきり無くなり会話すらしていなかった。いつからそうだったのか。のび太は覚えていなかったが、久しぶりの初恋の人との会話に胸を弾ませた。
「なんか話すの久しぶりだよね。ねぇ、今日一緒に帰ろうよ。」
「……」
 楽しげに話すのび太を他所に、彼女はなかなか口を開かずにいた。どうやら、なにか言いたいことがあるふうに思えた。
「どうかしたの、しずかちゃん?」
「……どうかしてるのはあなたよ、のび太さん。」
「えっ?」
 その表情は、なにやら暗かった。
「どうかしてるって……いきなり何を言い出すのさ?」
「最近ののび太さんは、なんだかずっと得意げで……まるで自分が世界の中心にいるみたい。周りの人のこと、全然労ってない。」
「あなたはそんな人じゃなかった。前ののび太さんに戻って。」
 その一言は、なぜかのび太の気を悪くした。それが何故なのかは分からなかったが、とにかくひどく不愉快になった。
「……あんまり、僕に酷いことを言うなよ。」
「……」
「いくらしずかちゃんだからって、容赦しない。今の僕は何だってできる。ドラえもんの力で、今すぐ君を自由に操ることだってできるんだ。……謝ってよ。」
「謝ってよ!!」
 虚しい怒号が、教室に響き渡った。気づいてみれば、教室にはもうのび太としずかしかいなかった。
「……そう。私の知っているのび太さんは、もういない。死んでしまったのね。残念だわ。」
「……さようなら。」
 その言葉だけを残し、彼女も教室を出て行ってしまった。そうして、そこにはのび太だけが残った。教室に差し込む夕日が、一人になった彼を照らしていた。
【六】
 のび太は虚しさを抱えながら、駅前の本屋で立ち読みをしていた。すぐに家へ帰る気はしなかった。
「おいこら! ウチは立ち読み禁止なの!! ほら帰った帰った!!」
「えっ、ちょっと待って少しだけ……」
「ほら出てって! 早く!!」
 本屋の店主に、乱暴に店外に叩き出された。周りには、楽しげに笑う家族や、同級生の集団。ついさっきまで上手くいっていたはずの日々は、急に音を立てて崩れ去ってしまった。
「……くそっ!!」
 のび太は、むしゃくしゃしながら帰路についた。



〜ススキヶ原・野比家〜
ドラえもん! いる!?」
 のび太は帰って早々、未来からの助っ人の名を叫びながら二階への階段を上がった。
「ちょっとのび太! 帰ってきたら、まずただいまでしょ!!」
 いつもならすぐに従うママの説教ですら、今ののび太には届かない。その苛立ちが焦りや後悔から来ていることを、彼は知っていた。
「ど、どうしたののび太くん血相変えて。僕はここにいるよ。」
「……ねぇドラえもん。未来の道具でさ、なんでも僕の思い通りになるような道具……ない? あるよね?」
「またそんなこと言って……ダメだよ、そんな都合のいいこと考えちゃ。何があったか知らないけど、もっと自分で努力してさ……」
「うるさいっ!!」
「……のび太くん?」
「君は……未来から僕を助けにきたんだろ? お助けロボットなんだろ? だったら余計な口挟まずに、都合よく助けてくれよ!! それが君の役目だろ!!」
 ドラえもんは、ただただ哀しそうな顔をしていた。いや、寂しそうと言った方が正しいかもしれない。
「……わかった。」
 四次元ポケットに腕を突っ込み、何やら探す様子を見せるドラえもん。そして——
悪魔のパスポート〜!!」
 彼が取り出したのは、トランプのジョーカーが表紙に描かれた真っ赤なパスポートだった。その表紙のジョーカーは、不敵な笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「これがあれば……なんでも僕の思い通りに?」
「うん。でもこれは凄く危険な……」
「ありがとう、ドラえもん。」
 ドラえもんの手から悪魔のパスポートをひったくると、のび太は彼の言葉を無視して家を飛び出した。
「僕は……もう落ちこぼれじゃない。僕には、未来の道具がついてるんだ。」
 悪魔のパスポート。それは使用者を悪の道へと堕とす、危険な道具。
【七】
 のび太がまずやってきたのは、先ほど追い出された本屋だった。悠々と店内を歩き、読みかけだった本を手に取って店を出る。案の定、あの店主が止めにやってきた。
「おい、コラ! 君その本買ってないだろう!! ダメじゃないかそんな……こと……しちゃ……」
 店主の眼前に、悪魔のパスポートがかざされていた。
「いや、いいんだ。持っていってくれ。」
「えへへ……どうも。」
 そのパスポートをかざされた人間はどんな悪事であっても許してしまう。それはそういう道具であった。
「こんな道具があるなら最初から出してくれればいいのに……ドラえもんのやつケチなんだから。」
 漫画を持って意気揚々とその場を去ったのび太は、それからも考えつく悪事のかぎりを尽くした。
「えいっ!」
 まず、公園のゴミ箱を蹴り飛ばした。
「きゃあ! ……どうぞ。」
 しずかちゃんのスカートをめくった。
「てめぇ! ……おう、好きなだけ持ってけ。」
 自分が今まで取られてきた分も含めて、ジャイアンの持っていた漫画を全部奪ってやった。ついでに、一発殴ってやった。
 他にどんなことをしたかというと……別に、なにもしなかった。のび太が考えつく悪事など所詮下手の横付き、大したバリエーションは無かったのだ。
「はぁ……この漫画、読もうかな。」
 またなんとなく帰るのが億劫だったのび太は、ジャイアンから取り上げた漫画を読むことにした。
〜同日«河川敷・高架下»〜
「アハハハハ! 凄く面白いや……全く、ずっとジャイアンに取られてたもんなぁコレ。」
 のび太は、誰の目にもつかないであろう薄暗い高架下で漫画を読み耽っていた。何度も笑い、怒り、感動した。そうやって読み続けていくと、ある一冊の漫画が目についた。
「これ……スネ夫のだ。」
 その漫画の裏表紙には、マッキーの字で『骨川スネ夫』と書かれていた。
〜〜ジャイアンにお気に入りの漫画取られたんだよ!! くっそ〜!!……うぅっ……〜〜
 脳裏に、スネ夫の悔しそうな顔が浮かんだ。あのときの彼は、確かに涙ぐんでいた。
「……知るもんか。アイツだって、僕を散々いじめてたじゃないか。」
 結局その漫画を読むことはなく、次の一冊に手を伸ばした。しかし長いこと外にいて手が悴んでいたのか、うまく取れずにその漫画を落としてしまうのび太
「いけないいけない……あっ」
 それは、さっきあの本屋から持ち出したまだ新しい一冊であった。そしてその裏表紙には、『三五〇円』の手書きの値札が貼ってあった。
「……」
 ゆっくりと、その本を拾う。
「……返しに行こう。」
 それからのび太は、まずその本を本屋さんへと返した。こっぴどく叱られたが、自分から返したということで今回は許してもらえた。
 それから、ジャイアンの家に行った。元々ジャイアンのものだった漫画は、全て彼に返却した。もちろん一発……いや、二発殴られた。
 次にしずかの家に行った。ひたすら頭を下げて、謝った。平手打ちを頬に一発もらった。しかし彼女は最後に言った。
「やっぱりのび太さんはのび太さんね。」
 そのときの彼女は、とても優しい笑顔を浮かべていた。



〜ススキヶ原・骨川家〜
 のび太は、スネ夫が住む豪邸のインターホンを鳴らした。
『はーい、どちら様?』
 インターホンに出たのは、スネ夫本人だった。以前に彼の両親は海外に出張中だという話を聞いたことを、のび太はこのとき思い出した。
「ようのび太……なんだよお前がうちに来るなんて。珍しいな。」
「……コレ。」
 のび太は、スネ夫に彼の漫画本を手渡した。
「え、お前この漫画……」
ジャイアンに取られてたんだろ? 取り返したんだ。僕のやつのついでにね。」
「……」
「じゃあ、もう行くよ。」
 スネ夫に背を向けて歩き出す。自分のことが、ひどく惨めに思えた。
「なぁ、のび太。」
「……なんだよ。」
「……」
 しばしの沈黙。そして、スネ夫は言った。
「お前、いいやつだよな。」
「ありがとう。」
「……っ!!」
 のび太は駆け出した。その言葉は、今の彼にはどうしようもなく重くのしかかった。そんな重荷を払おうと、のび太は最後に公園のゴミ拾いをした。
 終わりの方は、視界が滲んでよく見えなかった。
【八】
〜河川敷・高架下〜
 のび太は、ずっと泣いていた。自分の弱さを、愚かさを恥じていた。気づくと辺りは暗くなり、土砂降りの雨が地面を激しく打っていた。
「……やっぱり僕は、ダメなやつなんだ。」
 俯くのび太。いっそこのままずっと眠ってしまいたいと思った。
「ここにいたんだね、のび太くん。」
「えっ?」
 顔をあげると、傍らにドラえもんが立っていた。また、あの心地良い鈴の音が鳴った。
「……ドラえもん。君には申し訳ないけど、僕に望みはないよ。僕は勉強も運動もダメで……すぐ調子に乗るし、意気地だってない。そんな僕にどんな手を尽くしたって、無駄だよ。」
「……ちょっとだけ、僕の話を聞いてくれないか。」
「……君の話?」
 ドラえもんはゆっくりとのび太の隣に腰をおろすと、優しい口調で語り始めた。
「僕は元々猫型ロボットで……耳だってあった。他のみんなと同じように工場で生まれてさ。誰のものになって、どんな風に役に立てるのか……そんなことを考えてた。」
「……」
「でもある日、全部変わった。暴走したネズミ型ロボットに両耳齧られてさ。僕の頭……まん丸になっちゃったんだ。」
「そうか、君にそんな過去が……」
 ずっと不思議だった。何故猫型ロボットであるはずのドラえもんに、耳が無いのか。それを今、彼自身が語ってくれている。のび太は、この話はちゃんと聞かなければいけないと思った。
「それからはもう……散々。耳が無いってみんなに馬鹿にされて、何をやってもうまくいかなくなってさ。結局廃棄が決まってゴミ捨て場にポイ……あぁ、もう終わりだ。全部無駄だったって、思ったよ。」
「それって……」
「うん、今ののび太くんと似てるね。でも僕は……彼に。セワシくんに助けられた。彼が僕をゴミ捨て場から拾い上げてくれて、修理してくれた……耳はつけられなかったけど、彼は僕に名前をくれたんだ。型番じゃない、ドラえもんって名前をね。」
「じゃあ……君にとってセワシくんは、恩人なんだね。」
「うん……だから今度は、僕がそうなりたい。君にとっての、セワシくんになりたいんだ。」
「……ドラえもん。」
「さぁ帰ろうよ、のび太くん。僕たちの家にさ。」
 ドラえもんが、ゴム毬のように白く丸い手を差し出す。それを掴み、のび太は立ち上がった。
「ねぇ、ドラえもん。」
「ん?」
「僕と……友達になってよ。」
「……うん!!」

 雨が止んだ。

【九/プロローグ】
〜二〇七四年八月七日・«貧民街»〜
 視界が霞む。彼女の視界に映るのは、真っ暗な天井。そしてその傍らには、血まみれになりながら必死で産声を上げる赤子の姿があった。
「ごめんなさい……あなたには、もっと良い景色を見せてあげたかった。」
 壁に空いた大きな穴からは、自分達を照らす眩しすぎる光が差し込んでいた。そしてそこから見えるのは、遠く輝かしい賑やかな大都市。そして、目の前の川沿いに咲く一本の桜の木。
「あの木は……これからも葉をつけていくのね。そしていつか綺麗な花を咲かせる。私は見られないけど……あなたには、あの桜の木のように大きく立派に育ってほしい。そして、あの木が花を咲かせるその時を見届けて」
「生きて幸せになって。セワシ。」
 愛する息子の頭を撫でながら、母親はゆっくりと目を閉じた。
【十】
〜十年後・«ススキガハラ»〜
 セワシは、高層タワーの最上階から遠く映る貧民街を見下ろしていた。そこでの幸せな思い出は一切無かったが、ただただあの時の母親の温もりだけが彼の記憶には残っていた。
「御坊ちゃま。御時間でございます。」
「あぁ、今行く。」
 執事の言葉に力無く返事をしながら、セワシはその身を翻した。
「今日はまずピアノ、バイオリン、チェスのお稽古。それが終わったら帝王学。それから、語学の勉強を行なっていただきます。」
「あぁ。」
「その後は……御義父様から、なにやらお話があるようでございます。」
「……分かった。」
 十年前。泥と血に塗れながら貧民街の街道をはいずっていたセワシは、ススキガハラのとある大企業の社長に拾われた。彼は後継を切望しており、妻が亡くなったことをきっかけに養子を探していたらしい。
「僕は、こんなこと望んでない。」
「御坊ちゃま、何か仰いましたか?」
「いや、別に何も。」
 セワシは、ずっと諦めていた。
【十一】
〜同日・«ススキガハラ高層タワー»〜
 一日のスケジュールも全て終わり、セワシは苛烈な教育で疲弊した身体をほぐしながら養父のもとへやってきた。
「お義父さん、何か用ですか?」
「……相変わらず冷たい態度だ。命の恩人に向かって。」
「僕はあのまま死んだってよかった。それを拾ったのは、あなた自身のためでしょう。ただ自分の言うことを聞く都合のいい人形が欲しかった。だからあんな辺鄙なところまで後継を探しに来たんだ。」
「……この前の話、やはり考え直さないか。」
 男は葉巻を燻らせながら、こっちを見ることなくそう尋ねた。
「……はい。僕は、この家を出ていく。あなたの事業を継ぐ気はない。」
「行くところは?」
「……僕が産まれたあの街に戻ります。それ以外、行き場はありませんから。」
 ふぅとため息をつきながら、男はこちらに向き直った。その顔は、なにやら面倒そうな面持ちであった。
「お前に、言っておかなければならないことがある。」
「……なんですか、急に。」
「お前は……俺の息子だ。本当のな。」
「……え?」
 セワシに告げられたのは、自分が予想もしていなかった真実であった。
「昔、あの貧民街の土地を丸々買い取って工場を建てる計画があってな……結局その計画は頓挫したんだが、土地の視察に行った時……私は、お前の母親に会ったのだ。」
「彼女はのび太という祖先が作った大きすぎる借金に苦しみ……あの貧民街に身を寄せていた。彼女は私に言った。『助けてほしい』と。」
「私はその時ちょうど事業に疲れていて……憂さ晴らしできるならと彼女を言いくるめて一夜を共にしたのだ。私としては、ほんの一瞬の気晴らしのつもりだった。だが——」
「彼女はお前を孕った。」
 男が告げたその事実は、セワシにとって耐え難いものであった。そしてセワシは自然と、目の前にいるその男を嫌悪した。
「それでお前は……僕だけを拾ったのか。母さんのことは見捨てておいて、僕だけ……」
「当然だろう。あんな小汚い場所での生活が染みついた女に、価値はない。だがお前は違う。」
 彼は、ゆっくりとセワシに近づきその肩に手を置いた。
「お前は私の息子だ。諦めろセワシ。血には抗えない。お前は、父親である私の事業を継ぐのだ。」
 それは、本当に発作的な行動であった。セワシはその手を振り払うと、社長卓に置いてあった灰皿で目の前の男を殴り倒していた。
 男はほんの一瞬だけ痙攣したのち、動かなくなった。
「……はぁ。」
 セワシは眼前に転がる死体をそのままに、重い足取りで部屋を出たのだった。
【十二】
〜ススキガハラ«とあるゴミ捨て場»〜
 セワシは、無造作に打ち捨てられたゴミの山にもたれながらぼーっとしていた。
 そこは発展した二十二世紀の都市の一角とは思えない酷く薄汚れた場所であったが、彼はそんなこの場所がとても好きだった。
「やっぱりここは……落ち着くなぁ。」
 ふと、腰に何か丸いものが当たった。気になって見てみると、それは白いゴム毬であった。
「気を紛らわすには、丁度いいか。」
 セワシはそれを拾い上げようと手を伸ばした。が、すぐにそれがゴム毬ではない事に気がついた。
「子守ロボットの残骸か。」
 それは短く丸い手をこちらに伸ばしながら、悪臭を放つゴミの山に埋もれていた。
「……あーぁ。」
 ほんの出来心だろうか。そのロボットをゴミの山から引っ張り出すと、その身体についていた汚れをはらってやった。それは、セワシが知っていた子守ロボットの型とは少し違っていた。
「これ……猫型、だよな?」
 その猫型ロボットに耳はなく、体色も彼の記憶にあった黄色ではなく青色だった。その冷たい体色は、なぜだかセワシの心を癒した。なにか、今の冷え切った心に呼応するものがあったのかもしれない。
「……直してやるよ。」
 セワシは近場に放られていた工具を手に取ると、少しずつその残骸に手を加えていった。
 彼が育った家は自立型ロボットの開発を主な事業としていたため、機械系の知識もこれでもかと叩き込まれていた。初めて、あの厳しい教育を受けてよかったと思えた。



「よし。」
 幸いにも駆動系の根本部に大きな損傷は無かったため、修理はすぐに終わった。
「……あレ、コこは?」
「ゴミ捨て場……君、捨てられてたんだよ。」
 そのとても猫型とは言えない青く丸いロボットは、ぎこちなく首を動かしてこちらを見た。
「……キみハ、だレ?」
「僕は……セワシだ。君の命の恩人だぞ。感謝してくれ。」
「……ソッか。ぼく……スてられてたんだ。耳がないから。落ちこぼれだから……」
「……ねぇ君、名前は?」
「僕は……名前、ないよ。型番だけ。つけてもらう前に、捨てられちゃったから。」
 そのロボットは、俯いて涙を流した。悲しさを素直に表せる彼を、セワシはとても羨ましいと思った。
「ねぇ、君さ。」
「なに?」
「名前、つけてやるよ。」
「え?」
「君は今日から、ドラえもんだ。」
 セワシは生まれて初めて、生きていて良かったと思えた。
【十三】
〜ススキガハラ«高層タワー»〜
 ドラえもんを連れてタワーに戻ったセワシだったが、社長室の前を通ったときに部屋に置いてきた遺物のことを思い出した。
「あー……忘れてた。」
「どうしたの、セワシくん?」
「いや……ちょっと待っててね。」
 セワシは一人で再び社長室に入ると、相変わらず無造作に転がった死体を抱えて社長卓まで引きずっていった。
「たしか……ここに。」
 その卓の引き出しを開けると、そこには無限に続く時空のトンネルが広がっていた。
「……ここしか、ないよね。」
 タイムトンネル。発展した二十二世紀の技術は、ついに時間移動を可能とした。過去、現在、未来。あらゆる場所と時間に飛ぶことができるタイムマシン。そのタイムマシンの通り道がここであった。
「見つかりませんように……」
 セワシは祈りをこめながら男の死体をそこに放り込んだ。タイムトンネルにマシンを介さず入れば、時空の渦に巻き込まれて永遠に時の狭間を彷徨い続けることになる。その状態が長く続けば、やがて粒子となって時空の一部に溶け込んでしまう。それは、活動を止めた死体も同様だ。
「ふぅ……とりあえず捨てられた、けど。」
 これからのことを考えると、項垂れるしかなかった。やはりいずれは自分がやったこともバレる。それは別に構わなかったが、やはり自分に未来は無いのだと、そう思えて仕方ないのが辛かった。
「……そうだ。こうなったのも全部、僕の過去のせいだ。」
〜〜彼女はのび太という祖先が作った大きすぎる借金に苦しみ……あの貧民街に身を寄せていた。〜〜
 不意に、あの男の言葉が頭をよぎった。どうせ未来に希望がないのならと、セワシは思った。
「……」
セワシくん?」
 なかなか出てこなかったので心配したのだろう。ドラえもんが、不安そうな面持ちで部屋にやってきた。
「ねぇ、ドラえもん。」
「なに?」
「君に、頼みがあるんだ。」
 セワシの、未来を見つける旅が始まった。
【十四】
ドラえもんは返してもらうよ、おじいさん。」
「待って……どうしてさ、セワシくん!!」
 二人の別れの日。そして、始まりの日。



〜三十分前/同日・放課後«ススキヶ原»〜
 のび太は、その日も足取り重く帰路に着いていた。
「はぁ……やっぱり僕は、ダメなやつなんだ。」
 悪魔のパスポートの一件があってから、のび太はひどく自分のことを嫌悪するようになっていった。しずかちゃんは今まで通り接してくれたし、スネ夫は今までよりのび太をハブらなくなった。ジャイアンは……今まで通りだった。
 それでも、のび太は自分のことを許すことができなかった。そして今日、スネ夫のび太に言ったのだ。
〜〜のび太はやっぱりダメなやつだよ。ドラえもんがいないと何にもできないもんな!!〜〜
 ドラえもんがいないと、自分は何もできない。スネ夫のその軽い一言は、のび太に深く突き刺さった。
「そうだ、僕はドラえもん無しじゃ生きていけない。でもドラえもんさえいれば……僕は生きていける。」
 のび太は、自分を信じられなくなっていた。



〜ススキヶ原・のび太自室〜
「ただいま、ドラえもん……ってあれ、セワシくん?」
 のび太が帰宅して自室に入ると、そこには向かい合って立ち尽くすドラえもんセワシの姿があった。二人はとても深刻そうで、セワシは険しく、ドラえもんはとても悲しそうな表情をしていた。
「二人ともどうしたのさそんなピリピリして……なにかあったの?」
「あぁ、おじいさんか。ちょうどいい。あなたに話があるんだ。」



〜現在«ススキヶ原・のび太自室»〜
「訳を聞かせてよ……ドラえもん、どうして急に未来に帰らないといけなくなったの?」
「それは……」
 ドラえもんはもじもじとして、そこから先の言葉を言い出せない様子だった。それを横目で見ていたセワシはふぅとため息をつくと、代わりにと口を開いた。彼は、とても冷めた目をしていた。
「……おじいさん。もう話しちゃうけどね、僕がドラえもんを寄越したのは、別にあなたの未来をよくするためじゃない。」
「え……じゃあ、なんのために?」
「それは君を……」
「やめて、セワシくん」
「いいや言うよ、ドラえもん。おじいさん、彼はね……」
 その先の言葉を、のび太は信じることができなかった。いや、信じたくなかったのだ。
ドラえもんはね、あなたを殺すためにやってきたんだ。」
【十五】
〜二〇八四年・ススキガハラ«高層タワー»〜
ドラえもん、君に頼みがあるんだ。」
 セワシのそれは、まるで意味のない頼み事であった。しかし彼は、それでもそうしたいと思った。
「過去に行って、僕の先祖……野比のび太を、殺してくれ。」
「ちょっと待ってよ。いきなり人を殺してって……しかもご先祖様でしょ、駄目だよ。」
「僕はもう、一人殺したんだ。どうせすぐアイツらに捕まる。だからその前に……最低限の復讐がしたい。」
「……」
 ドラえもんは何も言わなかった。セワシも、そんな彼の顔を見ることができなかった。自分の顔がひどく薄汚れていることが、よくわかっていたからだ。
「まず、のび太に君に対しての信頼を抱かせる。そうして彼が依存したときに……後ろから殺すんだ。きっと絶望しながら死ぬだろ。僕は、"そういう復讐"がしたいんだ。」
「それは……復讐になるの?」
 そう。過去がどれだけ変わっても、セワシ達が生きる現在は変わらない。ただ、変わった過去に新しい未来ができるだけなのだ。
「あぁ。意味はない……けど、僕にとってそれは、意味のあることなんだよ。」
「……分かった。」
 ドラえもんが、そう言いながらタイムトンネルの前に立った。
「僕を助けてくれたのは、セワシくんだ。僕の人生に意味を持たせてくれて、名前もつけてくれた。僕はそんな君の……恩に応えるよ。」
「……ありがとう、ドラえもん。」
 ドラえもんは、決意に満ちた表情でタイムトンネルに飛び込んだ。彼がそうして過去に旅立つのを見送りながら、セワシは自分の過去に想いを馳せたのだった。
【十六】
〜再び現在・ススキヶ原«のび太自室»〜
「そんな……」
 のび太は、セワシからの告白を聞いて絶句した。自分の不甲斐なさのせいで、未来でセワシは苦しんでいた。その事実が、のび太の心を強く締め付けた。
「でもね、ドラえもんは言うんだ。あなたを殺したくないって。だから、やめることにした。僕だって、友達を傷つけることは本意じゃないんだ。」
 のび太の机の引き出しを開きそこに足をかけながら、セワシがそう言った。
「さぁ、行こうドラえもん。」
「……ごめん、のび太くん。」
 ドラえもんが、のび太に背を向ける。のび太の拠り所が今、離れていこうとしていた。
「……いやだ。」
 のび太のその言葉に、セワシの眉がぴくりと動いた。
「なんだって?」
ドラえもんを……連れて行くな!!」
 気づけば、のび太セワシにつかみ掛かっていた。それはまるで理性のない、子供が引き起こした癇癪のような行動だった。
「「うわ……あぁぁぁ!!」」
 不意をつかれたセワシはバランスを崩し、のび太セワシはトンネル内のタイムマシン上に落下した。その衝撃で誤作動を起こしたマシンが、行き先もないまま動き出す。
「くそ……離せ!!」
「離すもんか! 僕は……友達を失いたくない!!」
「うるさい! もう他に友達も家族もいるお前に……そんなことを言う資格はない!!」
「僕の不甲斐なさが君を苦しめたこと……それは謝るよ!! でもそれで、勝手に僕から友達を奪っていい理由にはならないだろ!!」
ドラえもんは友達じゃないんだよ! 僕があなたに与えてやった……便利なお助けロボットだろうが!!」
「違う! 彼は僕の友達だ! 友達を……友達を悪く言うな!!」
「「ちくしょう!!」」
 思いの丈をぶつけ合いながら、取っ組み合う二人。互いの激情が、時空の狭間を小さく揺らした。
「いい加減に……しろ!!」
 セワシが、のび太の身体を突き飛ばした。
「うわっ……」
「あっ……」
 無限に広がる時間の海に放り出され、少しずつ意識が溶け出していく。
(そうか……僕はここで死ぬのか。)
〜〜のび太はやっぱりダメなやつだよ〜〜
〜〜うるさい! もう他に友達も家族もいるお前に〜〜
(そうだ……僕はダメなやつだから、このまま生きてたって誰かに迷惑をかけるだけなんだ。だったらいっそ……)
〜〜ごめん、のび太くん〜〜
 のび太は、ゆっくりと眼を閉じた。
【十七】
「のびちゃん。のびちゃんや。しっかりしなさい。おばあちゃんに、その可愛いお顔を見せてくださいな。」
「う……ん……?」
 のび太が目を開けると、目の前には幼い頃に亡くなったはずの彼の祖母が敷布団に横になっていた。
 おねしょをしたり犬に吠えられて泣きじゃくったり、のび太は昔から弱虫だった。そんな彼を癒し、愛してくれたのが、彼女だ。どんなときでも、最後にはおばあちゃんが優しく抱きしめてくれたことを、のび太はよく覚えていた。
「おばあちゃん……?」
「ダメだねぇ、のびちゃんに心配かけちゃうなんて。老いには勝てないのかねぇ。」
(そうか……これは、死ぬ前に見るっていう夢かな。おばあちゃん。優しかった、おばあちゃん……)
「……? どうしたんだいのびちゃん。そんな浮かない顔をして。何かあったのかい?」
「……僕って、ほんとダメなやつだなぁって思ってさ。」
「……」
「意気地はないし、いっつもママとパパ……おばあちゃんにだって迷惑かけっぱなし。すぐ転んで泣きじゃくって……きっと僕なんかが大人になったって、誰かに迷惑かけるだけなんだって……そう思うよ。」
「……のびちゃん。」
 おばあちゃんはゆっくりと起き上がると、のび太の頭を撫でながら押し入れの方へと向かった。
「だ、だめだよおばあちゃん。横になってなくちゃ……」
「……おぉ、あったあった。」
 彼女が押し入れから取り出したのは、少し年季の入った小さいダルマであった。
「ねぇ、のびちゃん。」
「……なに、おばあちゃん?」
 再び布団に入りながら、おばあちゃんはダルマを転がしてみせた。ダルマはのび太の目の前でころころと転がると、少ししてゆっくりと起き上がった。
「ダルマさんって凄いよね。どれだけ転がっても、最後にはシャキッと背筋を伸ばして立ちあがっちゃうんだから。」
「……うん。」
「私はね、のびちゃん。あなたも、このダルマさんみたいになれるって思うのよ。何度倒れたってきっと立ち上がって前を向く。あなたにはそれができる。」
「……」
 のび太は、思い出していた。この少し後、おばあちゃんは安らかに息を引き取った。そんな彼女の言葉を、彼は今の今まで忘れていた。
「……おばあちゃん、僕は」
 ふっと、視界がぼやけ意識が遠くなる。
(あ、れ……?)
 やがて、視界が真っ暗になった。



「あ、れ……って寒っ!!」
 次にのび太が目を覚ましたのは、吹雪で視界が遮られた雪山の洞穴のなかであった。
「なんで僕、こんなとこに……?」
のび太さん、大丈夫?」
「えっ……し、しずかちゃん?!」
 隣にいたのは、想い人である源しずかだった。彼女は何故か大人の姿になっていたが、のび太にはそれが彼女であるとすぐに分かった。
「ほんと、バカよね。雪山に来て遭難しちゃうなんて……助けに来てくれてありがとう、のび太さん。」
 二人は洞穴のなかでじっとうずくまり、明るく燃える焚き火にあたっていた。自分たちが遭難したであろうことは、のび太にもある程度察することができた。
(でも、なんでこんな夢を……?)
のび太さん。」
「は、はいっ!?」
 しずかは少し気恥ずかしそうに火を見つめながら、ぽつりと言った。
「私、受けるわ。」
「え?」
「あなたのプロポーズ、私受けることにしたの。」
「あぁそうなの……って、えっ!?」
「何驚いてるのよ!! って、こんなとこで返事されたらそりゃ驚くか……。」
 訳がわからなかった。何故死ぬ直前に見る夢の内容が、こんなに幸せなのか。いや、もうすぐ死ぬからこそこんなに幸せなのかもしれない。のび太はそう思い直した。
「あ、ありがとう……でも、なんで? 僕なんて泣き虫だし勉強も運動もできないし……すぐ調子乗るし……」
「もう、やめてよそんなに自分を悪く言うの。私は、のび太さんに決めたの。」
「しずかちゃん……」
「……のび太さんは、優しいわ。それは、手に入れたくても手に入れられない……あなただから持つことのできた、特別な優しさ。」
「……」
「昔、屋根に乗ったバドミントンの羽を取ってくれたことがあったでしょう?」
「え、あぁ……」
「あのとき、のび太さんが屋根から落ちたときはすごく心配したわ。私のせいで大怪我しちゃったんじゃないかって。でもあなたは……一言も私に『痛い』と言わなかった。強がりも言わず、ただ羽を渡してくれたわ。」
「それはあのとき、他に気にしてることがあったからで……」
「それでもやっぱり、あれはあなたが優しかったからできたことよ。私は、そんなあなたが好きになった。」
「し、しずかちゃん……」
「あなたは、特別なひとよ。深い優しさと純粋な心を持った……素敵なひと。」
「だから、もっと自分を信じてあげて。お願い。」
 彼女の言葉を、のび太は飲み込みきることができなかった。それでも少しだけ、のび太は自分という人間が好きになれた気がした。
「しずかちゃん。ありが……」
 ふっと、再び視界が暗転した。のび太は再び意識を失った。



「ねぇ……あなた。この子の名前、もう決めてあるのよね?」
 気づくと、のび太は無機質な病院の天井を見つめていた。そこは記憶にない、しかしとても安らかで懐かしい場所であった。
(ここは……どこだ?)
のび太。僕たちの子の名は、野比のび太だ!!」
 そう言いながら、のび太の小さな身体を一人の男が抱き上げた。
「もしかして、パパ? パパだよね?」
 のび太のその問いは、彼には届かなかった。なぜならのび太は、言葉すら発することができなかったからである。
(そうかこれは……僕が生まれた時の……)
 よくよく周りを見渡してみると、パパだけではなくママの姿もあった。
「ねぇ、この子はどんな子になるかしら?」
「そりゃあママに似て、強くてしっかり者の子になるさ!!」
「あら。じゃああなたに似て、優しくておおらかな子にもなるわね。」
「将来はきっと、立派な商社マンさ!!」
「そうねぇ……それだけ立派な子に、なってほしいわね。」
 二人は、とても幸せそうであった。いつも怒ったり難しい顔をしていたパパとママからは、到底想像のつかない表情をしていた。
(ごめん。パパ、ママ……僕は二人の期待には応えられなかったよ。)
「でもやっぱり一番は」
「あなた?」
「この子には、自由に伸び伸びと育ってほしいなぁ。」
「……そうね。この子が自分で良いと思える未来に進んでくれたら、それが一番よね。」
(……!!)
「だから……のび太。」
「そう。どこまでも自由に、あそこに咲いてる桜の木みたいに大きく立派に育ってほしい。伸び伸びと生きていく……この子には、そういう強さを持ってほしい。」
 のび太は、泣いていた。まるで赤子のように純粋に、大きな愛に包まれて泣いていた。
〜〜のびちゃん〜〜
〜〜のび太さん〜〜
〜〜のび太〜〜
〜〜のび太!〜〜
〜〜のび太くん!!〜〜
 自分を呼ぶ声が聞こえる。過去から、未来から。自分に託された期待と、強さ。そして想いを知り、そして今——

 のび太は、現在に帰ってくる——。

【十八】
「……びたくん。のび太くん!!」
「ん……ドラえ、もん?」
 目を開けると、そこは自分がよく知る現代の自室だった。そして、その傍には心配そうにのび太を見るドラえもんの姿があった。
「……そうだ! セワシくん! セワシくんは!?」
 慌てて飛び起き、部屋を見回す。すると、部屋の隅で暗く不満げな顔をしたセワシが立っていた。
「……て、誰?」
 そしてそんなセワシの隣には、のび太の知らない顔が一人。彼は白と青で彩られたスーツをビシッと着こなし、それに負けないくらい真っ白な髭を蓄えたダンディな男であった。その姿はさながら警察のようだと、のび太は思った。
のび太くん、突然すまない。私はキーパー、タイムパトロールの隊長だ。」
「たいむ……ぱとろーる……?」
「そうか、すまない。君たちの時代では知らぬ名だな。タイムパトロールとは、あらゆる時間軸を監視し、過去から未来、また未来から過去への干渉などで時空に歪みが生じないようにする組織だ。」
「えーっと……もう少しわかりやすく……」
 混乱するのび太を見かねたのか、ドラえもんが口を開いた。
「まぁつまり……未来の人が過去に対して悪さしないように見張ってる、警察みたいな人たちってことだよ。」
「なるほど……で、その警察の人がなんで僕の部屋に?」
 キーパーはその立派な髭をいじりながら小さくため息をつくと、セワシを見ながら言った。
「彼が、タイムトンネルに男性の遺体を遺棄したことが分かってね。消息を追っていたら、今度は過去に色々と干渉してるじゃないか。だから隊長である私自ら、こうして彼を逮捕しにきたんだ。」
 逮捕。遺体。そして遺棄。あまりに重い言葉の連続で、のび太はすぐセワシがやったことの大きさを理解した。
セワシくん、君は……」
「僕は、諦めたんだ。幸せになることを。自分の未来を。だからせめて、僕を不幸にした血の繋がりに一矢報いたかった。」
「……」
「さぁ、行こうか。」
 キーパーに促されたセワシが、とぼとぼと力無い足取りでその場を後にしようとする。その背中は、とても小さく寂しそうに見えた。
「……セワシくん!!」
「……なんだい、のび太さん。」
「僕、嬉しかったんだ。未来の僕の子孫が、助けに来てくれたって知ったとき。新しい友達ができたとき。この嬉しさは君がくれたものだよ、セワシくん。」
「……それはよかったね。」
 こちらを見ることなく、セワシがタイムトンネルへと繋がる引き出しに足をかける。今を逃せば、一生言えなくなる。のび太は、そう直感した。
「僕、頑張るよ! 今はダメダメでも、意気地が無くても……自分の力で未来を切り拓いてみせる!! だから、セワシくんも……」
「……アハハッ! アハハハハッ!!」
 セワシが、不意に大声で笑いだした。その笑いは、まるで何かから解き放たれたかのような、そういう清々しさをはらんでいた。
「……おじいちゃん。たとえあなたがどれだけ頑張ったとしても、また違う未来ができるだけだ。僕たちの現在は変わらない。」
「……そんな。」
「でも」
 セワシが、不意にこちらに振り向いた。彼は涙を溜めながら、それでも精一杯の笑顔を浮かべていた。
「僕も、頑張ってみるよ。」
「……セワシくん。」
「ん?」
「僕の……未来をよろしく。」
「……おじいちゃんも、僕の過去をよろしく。」
 そうして、セワシはタイムパトロールに連れられて未来へと帰っていった。これからも彼にはたくさん辛いことが待っているだろう。それでもセワシには幸せな未来があると、のび太は信じて止まなかった。
【十九】
のび太くん……ちょっと散歩に行こうよ。」
「うん。」



〜十分前・夜«のび太自室»〜
のび太くん、君には言いづらいことだが……」
 セワシを送り終えたタイムパトロールのキーパーが、言葉を詰まらせながらのび太に言った。
ドラえもんくんも……未来に帰らなくちゃいけない。」
「えっ……そんな、どうして!!」
「それは……」
「隊長さん。そこから先は、僕がお話します。」
 キーパーの言葉を遮ったドラえもんが、のび太に語り出す。
「僕は元々、未来のロボットだ……。そんな僕がここにいる。君にも、随分とたくさん干渉してしまった……。これ以上僕がここにいれば、この現代にどんな影響が出るかわからない……危険なんだよ、僕は。」
ドラえもん……」
「だから僕は、帰らなきゃいけない。……帰らなきゃいけないんだ。」
 ドラえもんが、声を震わせて俯きながら言った。そんな姿を見て、のび太は自分が引き止めることが彼にとってどれだけ辛いことかを悟った。
ドラえもん
「ん?」
 ドラえもんの身体をグッと抱きしめる。辛いとき、逃げ出したいと思ったときにおばあちゃんがやってくれたのと、同じように。
「……ありがとう、友達になってくれて。」
「……のび太くん!」
 その姿を見ていたキーパーが、バツが悪そうにそっぽを向きながら言った。
「……のび太くん、ドラえもん。君たちの友情に免じて、今夜だけ時間をあげよう。明日の朝、迎えにくる。だから今晩だけは……二人だけで存分に語り合うといい。」
 そして、キーパーはその場を後にした。その場には、のび太ドラえもんだけが残った。



〜現在«ススキヶ原・空き地前»〜
「寒いね……」
「……うん。」
 その日は、雪が降っていた。気づけば十二月も後半に差し掛かり、のび太のもとにドラえもんが来てから一年が経とうとしていた。
「ねぇ、のび太くん。」
「ん?」
 ドラえもんが、足を止めた。
「……不安なんだ。僕がいなくなっても、ちゃんとやっていけるかって。ジャイアンにいじめられてもちゃんと嫌だって言える? やりかえせる? みんなの輪に入れる? あと……それから……」
ドラえもん。」
 その両肩に手を乗せて、のび太は真っ直ぐ彼の目を見て言った。
「僕は大丈夫さ。いろんな人からいろんな想いをもらって……セワシくんとの約束も守らなきゃ。だから僕は、もう大丈夫。」
のび太くん……ごめん、ちょっと風にあたってくる。」
 ドラえもんはそう言って足早にその場を去っていった。
ドラえもんのやつ……泣きたいなら、ここで泣けばいいのに。」
 ふと、のび太は目の前の空き地に人影があることに気づいた。それは、ジャイアンであった。どうやらとても機嫌が悪いであろうことを、のび太は彼の後ろ姿から悟った。
(退散、退散……と)
 そっとその場を後にしようとする。しかし運悪く踏みしめた雪が大きく音を立ててしまい、それに気づいたジャイアンのび太のほうを振り向いた。
「……やぁ、ジャイアン。」
「おぉ、のび太か……ちょうどいい。今むしゃくしゃしてんだ、一発殴らせろ。」
 足がすくみ動けないのび太の胸ぐらをつかみ、ジャイアンはその剛腕を振り上げた。
「歯ァ食いしばれ、のび太……!」
「うわぁ! 助けてドラ……」
〜〜僕は大丈夫さ。いろんな人からいろんな想いをもらって。セワシくんとの約束も守らなきゃ。だから僕は、もう大丈夫〜〜
「……ちょっと待って!!」
「お? なんだよ。」
 戸惑うジャイアンの背中を押して、のび太は彼とともに空き地の土管の裏に隠れた。のび太の声を聞きつけたドラえもんが、そこにやってくる。
「あれ……のび太くんの声が聞こえたような気がしたんだけど。おーい、のび太くーん!!」
 少し慌てた様子で、彼はその場を後にした。その様子を見届け、のび太ジャイアンに物陰から出るよう促した。
「……おい、のび太。なんなんだよこれは。」
「……ケンカなら、ドラえもん抜きでやろう。」
「へぇ……お前、意外と根性あるじゃねぇか。」
 大きく白い歯を見せて笑いながら、ジャイアンは拳をポキポキと鳴らしてみせた。のび太も負けじとファイティングポーズをとる……震えながら。
「いくぞ、ジャイ」
「くたばりやがれ!!」
 ジャイアンの痛烈な拳が、のび太の頬を捉えた。たまらず吹っ飛ばされるのび太。相変わらず、彼のパワーは凄まじかった。
「どうだ、恐れ入ったか!」
 拳を高らかと掲げ、勝ち誇るジャイアンのび太はそんな彼の足元で、冷たい雪に埋もれながら自分の弱さを恥じた。
(そうだ……どれだけ覚悟を決めたって、僕は弱いままだ……ダメダメなままなんだ……)
 のび太は諦めながら、ゆっくりと目を瞑った。
〜〜何度倒れたってきっと立ち上がって前を向く。あなたにはそれができる。〜〜
(……!!)
 のび太は、再び眼を開いた。その目は、まだ挫け切ってはいなかった。
「そうだ……そうだよね……おばあちゃん……!!」
 ズルズルと、重い身体をおして立ち上がる。
「お? まだやんのかよ、のび太。」
「あぁ、僕はまだやれる。勝負はこれからだ!」
「そうかよ!!」
 ジャイアンの握り拳が、今度は先ほどとは反対の頬を抉り抜いた。その強い衝撃に、またも地に伏されるのび太
「ぐ……うぅ……!」
「わかったか! どれだけ立ち上がったって、俺には勝てねぇんだよ!!」
〜〜だから、もっと自分を信じてあげて。お願い。〜〜
「僕は……諦めない……!」
 またしても、のび太は立ち上がる。
「しつけぇやつだな……いい加減、諦めろ!!」
 トドメとばかりに、ジャイアンのび太の腹を深々と殴り抜いた。
「がはぁ……!!」
 あまりの苦痛に大量の吐瀉物を吐きながら、三度地面に手をつくのび太。しかし、今度は倒れなかった。地面に立膝をつき、歯を食いしばって立ち上がる。
「なんだよお前……今日しつこいぞ!!」
「……れないんだ。」
「はぁ?」
〜〜不安なんだ。僕がいなくなっても、ちゃんとやっていけるかって。〜〜
 のび太は彼の不安げな顔を思い浮かべながら、叫んだ。
「僕が君に一人で勝てないと、ドラえもんが安心して未来に帰れないんだ!!」
「知ったことか!!」
 ジャイアンが、やぶれかぶれな一撃を振り下ろした。その拳を、顔面で受け止めるのび太。そしてそれにのび太は……思いっきり噛みついた。
「グアァァァ! 痛ぇぇえ!! 離せ! 離しやがれ!!」
 もはや、のび太を動かしていたのは気概だけであった。激しくその拳に喰らい付きながら、決して離すまいとジャイアンを強く睨みつける。
「わ、わかった! 俺の負けでいい! ……俺の、負けだ!!」
 彼のその言葉を聞いた瞬間、のび太のなかで張り詰めていた糸が切れた。ゆっくりと、その場に倒れこむ。ジャイアンがそそくさと去っていく足音が聞こえ、それと入れ違いで自分に近づいてくる足音が聞こえた。
「……のび太くん。」
ドラえもんか。」
「どうしてこんな無茶を……!」
 のび太を抱えながら、ドラえもんは震えた声でそう言った。
「僕、勝ったよ……あのジャイアンに一人で、勝ったんだ……だから安心して、未来に帰れるよ。なぁ、ドラえもん。」
「……あぁ! あぁ……!!」
 涙を流すドラえもんを見ながら、のび太の意識は少しずつ遠のいていった。
【二十】
〜ススキヶ原«のび太自室»〜
 ドラえもんは、目の前でぐっすりと眠るのび太の姿をじっと見つめていた。
(のび太くん……こんなに傷だらけになって。)
 思えば、ドラえもんのほうが彼に助けられていたのかもしれない。未来で彼の子孫であるセワシに拾われ、名前をもらい、ここにやってきた。そして今度は彼自身に、人の助けになる喜びをもらった。そして、生まれて初めての"友達"にもなってくれた。
「ありがとう、のび太くん。」
 昇りたての朝日が、窓から差し込んでいた。
【エピローグ】
 のび太が目を覚ますと、そこにドラえもんの姿はなかった。スズメが一日の始まりを告げるように鳴き、窓からは眩しい朝日が見えた。
「……君がいなくなったら、急に部屋ががらんとしちゃったよ。でも、いつかきっと慣れる。だから安心してくれよ、ドラえもん。」
 学校へ行こうと、部屋を後にするのび太。そのとき一瞬だけ、あの心地よい鈴の音が聞こえたような気がした。

〜完〜